ALS嘱託殺人とドクターキリコ

 世界のみなさま、おはようございます。朝起きたら雨の降った気配。ああ、洗濯物がぁ……。あと1時間早く起きていれば……いえ、目は覚めたのですよ。身体を起き上がらせなかっただけ。俗に(沖縄で)言う「ふゆう」ですね。怠けてしまった。わたしは「ふゆーさー」、怠け者です。

 さて、今日の話題はALS嘱託殺人。

 ものすごく悲しくて、複雑で、日本に限らないと思いますが、難病を罹患された方に優しくない社会の闇について考えさせられる事件です。

 同じALS患者である国会議員が「難病患者の生きる権利を奪わないでほしい」と発言しておりました。この方以外の誰かの発言ならば「綺麗事を言うな」という反応をしたかもしれませんが、同じALS患者の発言です。重みがあります。

 社会的また法律的には「嘱託殺人」で裁かれるべきこの事件ですが、世間一般には同情する意見も少なくないでしょう。

 しかしこれは、安楽死に関する厳格なる法律が整備されない限り、今のところは「殺人事件」とされるべきなのです。なぜなら、「嘱託殺人に見せかけた殺人事件」が生まれてはいけないからです。判断に迷う事件が生まれてもいけません。

漫画「ブラックジャック」の登場人物であるドクターキリコは、実際にはそう簡単に存在してはいけない存在なのです。

 仮に、仮に、法律的に安楽死が認められたとして、それを利用して死を希望するひとが現れたとして、それが「周囲の意志を忖度した自殺志願」ではないと、どのようにすれば証明できるでしょうか。

 たとえば何らかの理由で身体が動かなくなってしまい、24時間体制の介護が必要となった自分がいて、経済的にも物理的にも家族に負担をかけるようになってしまった自分がいて、「家族に迷惑をかけて生きるくらいなら、安楽死したい」と安楽死の申請を出す人のうち、何割くらいが「本当は身体が動かなくても生きていたいけど」という気持ちを「全く持っていない」のか。という話です。

 そして、経済的にも物理的にも負担になってしまった人に対して、周囲の人間が「できれば死んでほしい」と思うか思わないか。そういう話です。

 経済的にあるいは物理的に誰にも迷惑をかけないなら、生きていたかった。と、今回の事件で亡くなられた方が全く考えていなかったのか。それは誰にも分からない話です。

 大金を払ってまで、自分の生命を終わらせてほしいと願う病人がおり、それに応える人がいた。法律としては、その行為を裁く。

 このようなことが起きてはならないと、、、わたしには断言できません。

 病のために経済的な負担をしたことがありますか? 誰かに負担をかけたことがありますか? 身体が動かなくなった自分を想像できますか? そのとき自分が死のうとは考えない、と断言することができないの同じように、今回の事件と同じことが起きてはならないと断言することができません。

 願わくば、たとえば難病やケガなどで動けなくなった人が、死んでしまいたいとなるべく考えずにすむ世界であってほしいと。

 技術が進歩すれば、いつかそういう時代がやってくるのかもしれない。

 それでも死んでしまいたいと考える人はゼロにはならないかもしれない。

 ただ。

 死んでしまいたいと考える理由が、周囲のどんな状況にも関係なく、ただ自分のなかだけの理由であってほしいと。

 そう願うわたしがいます。

 一方で。

 安楽死を認める法律は必要なのではないかと考える自分もいます。

 どのようなシチュエーションかは分からないが、生きる権利と死ぬ権利は、同義であると考えるのはわたしだけではないでしょう。

 強盗GOTOキャンペーンに代表される最近の拙速な法案・法律のように決められては困りますので、最高の官僚チームによって最大限の配慮がなされた法律の整備を進めて頂きたいと考えます。

 このような細やかな配慮が必要な法律は、政治家ではなく官僚の得意分野です。ぜひ、そのような法律が整備されてほしいと願っています。

 人にやさしい社会。何がやさしさなのか、答えはひとつではないとしても。

 喜良原でした。

 ではまた次回。

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