一般県民が思う、基地のこと。」カテゴリーアーカイブ

特に基地のことに対して、報道されていること、されていないこと。

沖縄県議選46.96%

 世界のみなさま、おはようございます。

 何というか、メーデーもGWも入梅も、本土復帰記念日も飛び越して、5月1日からいきなり6月8日の記事になるという沖縄らぶびたんDays喜良原(きらはら)です。

 この間に突っ込み入れたいネタはいくつもありましたが、連休明けからなぜか忙しくなり、書かなきゃと思っているうちにタイミングを逃してしまっての今日です。

「ああ~、アーニャ、ははのそんざいこいしぃ~」ばりのくねくねポーズで、なんとなくごめんなさい。笑

 さて、昨日6月7日に沖縄県議選が投開票されました。

 結論から言いますと、投票率は過去最低の46.96%。定数48議席に対して、与党(非自民)が25議席、野党は自民17議席+その他6議席で合計23議席。与党は改選前から1議席減、自民が4議席増、その他1議席減でした。

 この選挙、新聞を始めとする県内メディアでは「現在の玉城県政が、県民からどのような評価を受けるか」と位置付けておりましたが、わたしのようなパンピーから言えば「コロナ禍もあってか争点を出し切れないメディアの的外れ選挙」でした。

 県内メディアは選挙と言えばすぐに「辺野古」と結び付けたがりますが、辺野古と同じくらい(人によっては辺野古よりも)大事なものが自分たちの暮らしではないかと。

 コロナ禍があるがために「コロナ対策」という公約項目がありはしたものの、これは県議レベルでどうにかなるものではないし、そんなことは県民も分かっているというのに、県内メディアはそこを立候補者に質問する。立候補者も聞きかじりレベルで当たり障りのない対策を打ち出すしかない。

 これでは投票率のカギを握る無党派層(浮動票)にはウケませんね。無党派層(民草)はほんとうに風になびくものですから、前述の「的外れ選挙」を言い換えるなら「風を作り損ねた選挙」と言えるでしょう。

 わたし自身、世界情勢に詳しいわけではありませんのであまり偉そうに言えませんが、こと日本国内においては議会制民主主義が何となく限界にきているような気がします。

 国会では与党1強と烏合の衆、与党のなかでも1強と不愉快な仲間たちで議会が議会として機能できていません。

 国民の利益って、なぁに?

 ということを考えるとですね、某広告代理店の巨人が怪しげな社団法人を作って20億円中抜きして受注して、さらに100億円余を抜いて子会社に発注してという「法律で禁止されているはずの下請け丸投げ業務」などを許している現状が……ですね。

 これはもう、首相を直接国民投票で選ぶ形にしてはいかがでしょう。

立候補者100名まで可能。政党に属していなくてもいい。学歴不問で年齢28歳以上かつ社会人経験10年以上。カネをかけた選挙広報は・・・国政は1億円までとしましょう(これまでの手法なら全然足りませんよね)。だから、総務省管轄のWEBサイトと公式の選挙公報(各家庭配布)で選挙を行う。必要なら地域ごとの予備選を行ってもいい。

 権力を握ったものだけが多数決の暴力で国政を動かしていくのは、限界がきたのだと思えます。

 国会議員も都道府県議会議員も市町村議会議員も、日本国憲法や諸法規に定められた役割を果たしていますか?

 市民の代表だと言っておりますが、そして本当に一所懸命な議員さんもいらっしゃるのですが、だいたいの方々は、投開票の翌日(たとえば今朝)になると、前日までの立ちんぼ姿はどこへ行った。お礼もなしかい。という感じですよね。

 これなど、どうせ議員立法をするわけでもないですから、もう行政を見張るオンブズマン制度を充実させる方向にお任せして、議会は無くしてしまってもいいのではないかと思います。あるいは、議員の数の半分くらいを公選のオンブズマンにして、行政を見張ってもらうと。あ、そのほうがいいのではありませんか。3か月に1回、問題点をひとつも発見できない、課題解決提案をひとつもできない人は罷免すると。

 そのくらいやらないと、この国の政治は国民から信用されないのではないですか。選挙結果で自分の暮らしが変わるなら、それはみんな投票に行くはずなんですよ。

 あ。

 なんとなく方向性が見えたかも。

 ではまた次回(いきなり?!)

 県議選投票率が46.96%と情けない数字に終わったことを悲しんでいる、喜良原でした。

墜落と不時着と着水と、愛しさとせつなさと心細さと

 世界のみなさま、おはようございます。

 今さらながら「早くポイチを解任しろ!」「いや待て、オリンピックまではテスト期間だ。本番はW杯だからな」などと、脳みそが行ったり来たりしている、沖縄らぶびたんDays、喜良原(きらはら)です。

 いやしくも一国の代表監督をポイチだなどと呼び捨てる不遜は・・・・・・どのメディアも書いていないようですね、今のところは。

 監督の考えがどうであっても、サッカー協会の考えがどのようにあっても、とりあえず応援するチームが負けるのは見たくないし、あのような歴史的大惨敗が、いまさら許されるチームなのか、日本は。なんて考えてしまいますね。

 さて、去った1月25日、沖縄本島の東170㎞の海上に、米軍のヘリコプターが着水しました。墜落しました。不時着しました。さ、どれが正しいでしょうか。

 琉球新報は1月26日付け朝刊で「墜落」と報じ、沖縄タイムスは「不時着水」と報じ、テレビ各局は「不時着」と報じ、米軍の公式発表は「着水」でした。

 あれ? このヘリコプターは、フロート付きの水上機でしたっけ? 違いますね。海面に下りた後、水没したんですよね。

 だったら、墜落・・・・・・でも、不幸中の幸いで乗員は全員無事だそうですから、墜落とも言えないのか・・・・・・で、2016年に名護市の浅瀬にオスプレイが墜ちプレイしたときは、あれは明らかに墜落でしたね、機体も大破して。

 2015年のうるま市沖に墜ちたときは・・・・・・やはり墜落ですね、重傷者も出ましたし。

 じゃあ、表現としては・・・・・・という話はどちらでもいいんです、本当は。

 物事の本質は、米軍のヘリコプターが意図せぬ状態で意図せぬ場所に落ちたということなんですよ。墜落だろうが不時着だろうが着水だろうが、これが事故であることには間違いなく、そして、やっぱり人のいる場所の上空で起きたら大惨事になっていただろうなということですよね。本質は

 それでも飛行は続くし、米軍機は今日も沖縄の空を飛んでいるわけで。

 世界一危険な飛行場だという基地はあと10年以上も放置プレイだというのに、平気な顔してババンバンな国会議員さんは、カジノ絡みで領収証なしのお金を受け取っておいて、最近は「真っ白なジャンパー」を羽織って、国道58号線の泊交差点付近で朝立ちしていると。

 おめーに真っ白なジャンパーは似合わねーと言いたげな視線を送ることもなく、市民は素通りしていますよ。もう無視。シカト。あれ? このひと、結局は地元のために何か実現してくれたかしら?的な。もう20年以上も国会議員をやっているようだけど、何かトクしたかしら、わたしたち。的な。

 まあ、国会議員も職業ですからね、昨今は。

 昔のように「お国のため」なんちゅうことは無いでしょう。

 もう二大政党制でいいので、はやく野党も強くなってくれたら、もう少し政治も面白くなると思いますけれども。

 本質から目を逸らされたら、その代償は国民が負うことになる。

 わたしたちも刮目していなければなりませんね。

 ちなみにオリンピックのサッカー日本代表、わたしは1次リーグ敗退と見ます。その前のW杯2次予選ではさすがに負けないでしょうが、最終予選で負けることも有り得るわけですよね。オリンピックまでポイチさんを引っ張って、ダメだったときにサッカー協会はどうするのでしょう。

 わたしなら、ポイチさんはオリンピックに専念してもらって、いますぐ別の監督を日本代表に据えますけど。ストイコビッチさんとか最高ですね。

 サッカー協会の幹部のメンツとか、どうでもいいですよ。

 メンツがどうとか、やっている間に対処が遅れてしまう。どうも日本型組織の上の人たち世代(世代ですよ、世代。1950年代生まれとか)には、そういう人たちが多いようです。

 潰すつもりですか。

 日本サッカーを。会社を。社会を? 日本を?

 いやはや、愛しさより切なさより、心細いが勝ってしまう沖縄らぶびたんDays、喜良原でした。

 ではまた次回。

米軍ヘリが墜落した大学、という誤解

 世界のみなさま、おはようございます。

 タイムリーなのか何なのか、「硫黄島からの手紙」をたまたま観て、あー、これは日本人にはウケないよと感じた沖縄らぶびたんDays、喜良原(きらはら)です。

 アメリカ映画らしくステレオタイプな人間像で描き出す叙事詩ですけれども、旧大日本帝国時代のいわゆるステレオタイプな日本人像(外側から見たバージョン)というのは、現代の日本人が最も否定したい愚かな状況下、最上層の人間でさえ本当に自分の意志で動いているのか分からないほど、「皇国(帝国)日本の神聖なる何か」に言動を縛られている、人類史上もっとも愚かな人種のひとつですから。 

 それを正面から受け止める器量は、日本人全体としてはないでしょう。個人として受け容れられる人は数知れず存在するでしょうけれど、それも内心の話です。表立って受け入れを表明するのは難しい。

 2006年の公開当時に見ていれば良かったと、今さらながら。その当時のわたし、わたし史上もっとも仕事(当時の本業)にのめりこんでいた時期で、映画には興味がなかったことが悔やまれます。

 さてさて、今日8月13日は「宜野湾市の沖縄国際大学構内に米軍普天間基地所属のヘリコプターが墜落した日」でございますな。2004年8月13日の出来事です。

 詳細は他所に譲りますけれども、わたしもその日・その時は宜野湾市内に滞在していたこともあり、とても他人事には思えません。しかも墜落1時間前にはキャンパスのそばにいましたから。

 しかしこの沖縄大学で今年になって「ヘリ墜落事件のことを知っているか」という学生へのアンケートに対して「詳細を知っている」が15.9%で、自由記述に「事件を風化させたくない理由は何か」という記載があったとの新聞記事が掲載されました。

 いや、面白い。

 これはハッキリ言って虚を突かれたというヤツですね。

 世代が変われば、考えも変わる。まさか風化させてはいけない理由を問われるとは。これも長年の教育の成果でしょうね。

 沖縄国際大学。経営のことを考えたら「世界一危険と言われる米軍普天間基地と、わずかフェンス1枚を隔てたところに立地している大学です」なんて、口が裂けても言いたくないでしょう。

 でも、事実は変わらない。「世界一危険と言われる米軍普天間基地と、わずかフェンス1枚を隔てたところに立地している沖縄国際大学」という事実は変わらないのです。

 わたしが経営者ならばむしろ「世界一危険と言われる普天間基地のそばで、世界一平和について考えられる沖縄国際大学」をウリ文句に平和教育などを充実させて大いに学生募集して、ついでに偏差値向上も狙いますけど。

 どう考えてもそちらのほうが大学にも学生にもメリットがある。

 少なくとも広大な駐車場を確保して琉球大学に行けない学生を拾っていくより、偏差値を上げて内地から優秀な学生を募集して周辺のアパートや学生寮に住まわせて、平和について考えてもらうほうが何倍も将来性があるのではないですか。

 いや、学生の質がどうこうと言うつもりはありませんけれども。

 でも、風化させてはいけない理由は? はね、いくら長年の教育の成果でも何でも、思考停止が酷いような気がします。

 ただ経営的には、そちらへの舵取りが有効だろうと。

 しかしこのヘリ墜落事件。よく「大学に米軍のヘリが墜落した」という紹介のされ方をしていますけれども、それは誤解です。正確には「ヘリは基地に向かっていたがたどりつけず、住宅街に墜落していくところ、たまたま住宅街の中には夏休みの大学があって、幸運なことにそこに墜落した」じゃないですかね。

 あれだけの事故で誰も死ななかったことが幸運なのですが、それほどに普天間基地は住宅街の真ん中に存在しているということです。

 本当に、フェンス1枚だけ。

 この状態を見ても、「辺野古移設」とか言えますかね。

 まず「普天間撤去」じゃないですか。

 ヘリが墜落したのは大学であり、日本国、なのですよ。

 実は「硫黄島」の時代から、日本人の本質は変わっていないのかもしれませんね。

 辺野古だどうだというやり取りが、大本営発表を思わせるじゃないですか。

 国政与党が肥大化するのを目の当たりにして、不安というか恐怖というか、あるいは怒りに似た何かを感じているのはわたしだけではないでしょう。

 沖縄らぶびたんDays、喜良原でした。

 ではまた次回。

 世界のみなさま、おはようございます。

 いやはや、芸能プロダクションの圧力とやら、今さら「初めて知りました」的なマスメディアのkamatotoぶりに、苦笑いやら呆れるやら、まあまあ忙しい沖縄らぶびたんDays、喜良原(きらはら)です。

 だって、あんたらも芸能プロの大小で取り扱いを決めてきたやないですか。今さらそんなん知りませんでしたとキョトン顔で話されてもね。笑

 三文芝居にしか見えませんでしょ。

 さて、去った参院選。

 沖縄では大方の見立て通りに、県政与党の憲法学者、高良鉄美氏が当選しました。

これしかし、分かっているのでしょうかね、ご本人は。

「県政与党が信任されたのであって、高良氏本人が選ばれたのではない」

という事実。

高良氏は言う。

「辺野古新基地は違憲」

「自衛隊は違憲だが、自衛隊法に基づき合法」

「国会に帽子はかぶっていく」

これが当選後の高良氏の主張です。笑

あえて帽子(笑)から行きますが、わたし、前回「人にお願いするときは帽子をとって頭を下げるべき」と書きましたが、実は高良氏については例の帽子を取る取らないで揉めた議会傍聴の経緯があったので、出馬を依頼されたときに「わたしは人前で帽子を取りませんけど、それを容れるならば出馬を受け入れましょう」と答えていたら、素直に高良氏を応援したでしょうね。

 でも、そうはしなかった(初期のころの朝立ちは着帽のままだったが、すぐに帽子を取って挨拶するようになった)。人格的な部分では、それが全てかと。悪い人ではなく、むしろ善人の類。ただ、見栄っ張りな部分があるし、自分勝手なところもある。

 郷に入っては郷に従え。ルールが守られるから社会が保たれる。

 ひどく人権を侵すルールならばともかく、人権を盾に帽子を取らないと言い張る人、なのですな。

「自衛隊は違憲だが、自衛隊法に基づき合法」

という発言。ご自分では絶妙な回答と思われているかもしれませんが、憲法学者の視点から考えればマイナス100点くらいじゃないですか。

 自衛隊の存在が違憲ならば、それの後ろ盾となる自衛隊法も違憲であると規定するのが憲法学者でありましょう。すべての法律は憲法に基づいて制定されるべき、と考えるのが憲法学者でありましょう。上手の手から水。そんな感じですね。

 ちなみに自衛隊については、一部の国民をのぞけば、悪い感情は持たれていないのではありませんか。

 わたし自身、自分が入隊することはあり得ませんが、彼らに悪い感情は持っていません。国として自衛力は必要だと考えているからです。

 警察力と自衛力。これは国の維持には必要です。

 問題は、自衛力が海外に出る(戦争に出かける)ための「戦力」となるかどうか。

 つまり、政治の使い方ひとつなのですな。

 自衛隊の存在は、自衛力として重要。でも戦力となってはいけない。憲法に明記する必要はない。自衛隊法の存在を責める必要もない。それで良いのではありませんか。

「辺野古新基地は違憲」

何をして、違憲。というより、それが違憲ならば国内全ての基地は違憲です。米軍基地も自衛隊基地も。ちなみにわたしは、「違憲かどうかだけを判断する」ならば、すべての基地は違憲だと考えています。

 しかし、ここでもうひとつ「違憲であることが国民にとって益か否か」という判断基準を提供します。

 米軍基地は、旧日本帝国軍に代わるようにして、米国の都合(アジア戦略)で設置された

施設です。自衛隊基地は、日本国内で燻る自国戦力保持の考えと、大きな戦力を遠いアジアで維持することに疲弊し始めた米国の考えとの狭間から生まれた施設です。

 これらはいずれも憲法9条からはかけ離れた場所に存在しています。しかし、まあ、ある一定の範囲で国民の益となっている側面は否めないでしょう。

この部分を「違憲」とだけ述べてしまうのは、まあ、さすが学者さん。指摘するだけだったら、喜良原レベルもできますが、指摘して終わるのもやっぱり学者さんなんですよ。

 学者は考えるのが仕事。何かを変えるのは政治家。実施するのは行政。裁くのは司法。そういう役割分担があるじゃないですか。

 高良氏に「県政与党側の参院議席」以上の価値はありません。くれぐれも脱帽すべき場所では脱帽して頂きたい。くらいですかね、要望も。

 沖縄らぶびたんDays、喜良原でした。

 ではまた次回。

7月1日に、6月30日

 世界のみなさま、おはようございます。

 沖縄らぶびたんDays、喜良原(きらはら)です。

 今日は7月1日ですね。

50年前(1969年)の7月1日は、知り合いが生まれた日(つまり今年で50歳)です。

 さらにその10年前(つまり今から60年前の1959年)の6月30日は、うるま市(当時は合併前の石川市)の小学校に、米軍のジェット戦闘機が墜落した日です。

 うるま市の小学校、と、言いました。が、本当は小学校の手前の住宅街に墜落し、滑走するように小学校の校舎に突っ込んでいったというのが事実です。

 住民・小学生あわせて17人(後年、事故の後遺症のため1人が亡くなり、18人となる)が死亡し、200人以上が負傷した「宮森小学校の事故」から、昨日で60年経過したわけです。

 詳しい事故の経過は、報道各社をご覧ください。

 わたしが言いたいことは、それほど多くありません。

 つまり、基地が存在するが故の事件事故は確実にあり、死ななくてもいい生命が失われ、傷つかなくてもいい人たちが傷つけられてきた歴史があり、また現在でもそのような状況下にある。

 これらの状況を、本当に日本国政府や政治屋さんたちは、理解しているのか。ということなのです。

 昨日、先進国とやらが集まる会議が終わって、米国大統領が「日米安保は(アメリカが日本を守る約束ばかりで)不公平だ」と発言しましたね。

 県内からは「だったら、むしろ日米安保は解除してくれても構わない」という意見が聞こえてきそうです。

 我が世を謳歌する日本国政権からしてみれば「じゃあ、自衛隊を強化するしか無いね! いいね!」と喜びそうなシチュエーションかもしれません。

 1945年当時の米国は「敗戦国となったとはいえ手強かった日本には、二度と戦力を保持させてはならない」と考えて、日米安保条約を締結したはずなんですね。

 しかし日本政府も(当時は戦前からの政治家がほとんどでしたから)どうにか自前の戦力を保持したいと考えて、警察予備隊(のちの自衛隊)を組織化させた。

この辺りのバランスは難しいところでしょうが、この先「日米は相互に守り合うべき」という合意に至れば、日本政府は当然「日本周辺だけの自衛力」ではない「海外に出て行って戦闘ができる能力」を準備することになる。

 これはつまり、戦争能力を得るのと全く同義ですよね。

 米国はもしかしたら、日本に武器を売りつけたいだけかもしれない。なぜなら、それ(武器)以外の多くの米国製品は、日本国内の生産品と比べて品質的に勝っていないから。輸出の窓口は開いているが、日本国民はなかなか買わないから、輸入もされない。

 しかし武器(戦争用)だけは日本に明確に勝っている。品ぞろえも品質も。だから、売りやすい。しかも日本が「海外に出て行って戦闘するための武器」となれば、自衛隊にはまだほとんどありませんから。

 いろいろと噴出する問題を話し合いでは解決できない先進国が、着々と戦争の準備を進める。時代が戦争に向かっている、あるいは戦争がすぐそばにあることを、日本の政治屋さんは気づいているのでしょうか。

 気づいていて、準備を進めているのか。あるいは単純に武力がほしくて武器を購入しているのか。入手した武器を使うと、人命が簡単に失われるという事実に気づいているのでしょうか。そして「人を殺せ」と命令するのが誰なのか、気づいているのでしょうか。

 気づいているとしたら、まず政治家は自分の家族を自衛隊の現場組に所属させるべきです。実際に戦場に派遣される部隊に所属させるべきです。国民の痛みを、政治家が共有するというのなら。そこまでの覚悟があるのなら。

 ですが、実際にはそんなことはあり得ないでしょう。

 昔の殿様は、自身が戦場に出て、何なら先頭に立って指揮したりした分だけ、まだマシだったかもしれません。今の殿様は、戦場に出るどころか、発言ひとつで人命を失わせるわけですからね。

 60年前に失われた多くの生命に、改めて哀悼を。

 そしてまだ戦争が身近にあることへのお詫びを。

 平和とは何か。

 沖縄には、その答えがいくつもいくつもあるのですが。

 沖縄らぶびたんDays、喜良原でした。

 ではまた次回。